
あの稜線の上には、日常じゃ味わえない空気があった。
登って、振り返って、また登って──気がつけば、富士山がずっと背中を押してくれていた。
大菩薩嶺(だいぼさつれい)は、標高2057m。山梨県甲州市と丹波山村にまたがり、日本百名山のひとつとして名高い。名前に威厳があるが、実は「登山初心者におすすめの山」としても人気だ。標高こそ2000mを超えるけれど、登山口の上日川峠はすでに標高1600m。ここから歩き出せば、山頂までの距離は思っているよりもずっと短い。
しかも、登りきった先には“お手軽なのに絶景”というご褒美が待っている。
上日川峠からスタート|バスで行ける2000m級の山
出発はJR甲斐大和駅。ここから上日川峠行きのバスに乗り込む。運行は基本的に土日祝のみ。平日に行く場合は、栄和交通の最新の時刻表を要チェックだ。冬季は通行止めになるので注意が必要。
標高1600mの上日川峠に到着すると、ひんやりとした空気に包まれる。バス停横の公衆トイレで身支度を整えたら、いよいよ出発。
唐松尾根から山頂へ|富士山が背中を押してくれる登り道
上日川峠バス停(30分)→福ちゃん荘(1時間10分)→雷岩(10分)→大菩薩嶺(10分)→雷岩(35分)→大菩薩峠(45分)→福ちゃん荘(25分)→上日川峠バス停

登山口からしばらくは、広めの林道が続く。ゆるやかな傾斜と土のやわらかさが足に心地よい。はじめての道なのに、なぜか懐かしい。そんな気分で歩いているうちに、ふいに「福ちゃん荘」にたどり着いた。


ここが、今日のコースの分岐点。唐松尾根から登って山頂を踏み、そこから稜線を歩いて戻る、時計回りのルートか、大菩薩峠から先に稜線を歩く反時計回りか──最初から稜線を歩く逆回りの人もいるけれど、私は“最後にお楽しみをとっておきたい派”だ。
唐松尾根に入ると、次第に足元の様子が変わってくる。ごつごつとした岩が現れ、勾配もゆるやかに険しさを増してくる。でも、不思議と足取りは重くない。ふと後ろを振り返ると、そこには、どんと構えた富士山がいた。

少し疲れて立ち止まるたび、背中の向こうに現れる富士の姿。残雪を抱いた姿はどこまでも穏やかで、それでいて、目が離せない迫力がある。少し息が上がったときも、その姿が「あともう少し」と励ましてくれる。登っては振り返り、また登って、また振り返って──そんな道のりだった。

やがて木々の間から風が抜けはじめ、空が開けていく気配がした頃、「雷岩」と呼ばれる大きな岩が現れる。多くの登山者が腰を下ろして休むこの場所は、富士山や南アルプスの山々、そしてこれから歩く稜線を一望できる絶好のビュースポット。
だけど、その前にもうひとつ。大菩薩嶺の山頂は、雷岩からさらに樹林帯の中を10分ほど進んだ場所にある。

大菩薩嶺の山頂──標高2,057メートル。展望はない。けれど、名前の響きにふさわしい静けさがそこにはあった。ひと呼吸おいて、再び雷岩へと引き返す。そこからが、この山のハイライトだ。
稜線歩きという贅沢|気軽に味わえる「空の道」

雷岩からの稜線歩きは、まさにハイライト。短いながらも、右手には富士山、前には続く尾根道。足取りも、心までも軽くなる。



大菩薩嶺の魅力は、2000m級とは思えないほど“おいしいところ”を手軽に味わえること。一般的に稜線といえば、長い登りを経てようやくたどり着く場所だけれど、この山では、そんなご褒美が日帰りで味わえるのだから、人気なのも納得だ。

林道に入ると、景色は紅葉のトンネルへと変わる(私が訪れたのは秋だった)。カサカサと葉が揺れる音に、季節の移ろいを感じる。こういう時間があるから、登山はやめられない。
下山後のお楽しみ|ロッヂ長兵衛のほうとう
稜線を歩き終え、上日川峠まで戻ってくると、帰りのバスまではまだ少し時間があった。そんなときにちょうどいいのが、「ロッヂ長兵衛」。登山口すぐ横にあるこの山小屋は、下山後の体と心をそっと包み込んでくれるような場所だ。

せっかく山梨に来たのだから、頼んだのはもちろん「ほうとう」。注文してから運ばれてくるまでに20分。けれど、その待ち時間すら、ここではちょっとした余韻になる。
出てきた鍋は、どんと一人前のボリューム。かぼちゃの甘さと味噌のコクが体に沁みる。重たすぎず、でもしっかりと体に染み渡る優しい味だった。じんわりと胃が温まり、登山の疲れがゆっくりと解けていく。
売店には登山者向けのグッズも並んでいて、思わず手ぬぐいをひとつ購入してしまった。
それから、ロッヂ長兵衛には水洗トイレに加え、なんとお風呂もあるそうだ。泊まりがけで訪れて、朝の静けさの中で見る大菩薩嶺のご来光──そんな楽しみ方も、いつか試してみたいと思わせてくれる。
手軽な日帰り登山として人気の大菩薩嶺だけれど、次は泊まりで来てみようか──帰りのバスに揺られながら、そんなことをふと思った。
まとめ|大菩薩嶺は、登山初心者にこそおすすめの百名山

以前、筑波山は百名山の中でも登りやすいと書いた。実際、その言葉通り、気軽にアクセスできて、初心者でも挑戦しやすい山だった。けれど、大菩薩嶺に足を運んでみて気づいたのだ。登りやすいという言葉の中にも、いろいろな“味”があるのだということを。
筑波山が街に近い登山の入口なら、大菩薩嶺はもう一歩先の世界。ちょっとだけ山っぽさを味わいたいときに、ちょうどいい存在だった。
登山口までバスで行けるアクセスの良さ、手ごろな行程、圧倒的な眺望。富士山を眺めながらの稜線歩き。
登山初心者にも、自信をつけたい人にも、そして山を好きになりたい人にも。大菩薩嶺は、そんな願いを受け止めてくれる、やさしくて頼もしい山だった。
【アクセス情報】
- 上日川峠(大菩薩嶺登山口):JR甲斐大和駅から栄和交通 上日川峠行きのバスで約40分。(運行は基本的に土日祝のみ。平日の運行日は、栄和交通の最新の時刻表を要チェック。冬季は通行止めになるので注意が必要。)
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